2017年06月23日

2017.6.23 能楽鑑賞教室@国立能楽堂

2017.6.23 第34回 能楽鑑賞教室

演目
解説「能楽のたのしみ」    山井綱雄(能楽シテ方金春流)
狂言「附子(ぶす)」(大蔵流)
     シテ(太郎冠者)=山本則孝、
     アド(主人)=山本凛太郎、アド(次郎冠者)=山本泰太郎
  (休   憩)
能「黒塚(くろづか)」(金春流)
     シテ(前・女、後・鬼女)=辻井八郎、
     ワキ(阿闍梨祐慶)=殿田謙吉、
     ワキツレ(同行の山伏)=則久英志、
     アイ(能力)=若松 隆
     囃子方 笛=藤田貴寛、小鼓=鳥山直也、
         大鼓=佃良太郎、太鼓=金春國直
     後見=髙橋 忍、井上貴覚
     地謡=大塚龍一郎、本田芳樹、中村昌弘、山中一馬、
        政木哲司、山井綱雄、後藤和也、本田布由樹

今年の鑑賞教室は、たまたま生徒さんたちの少ない
日に当たった。都内の私立の中学と高校、各一校。

冒頭の解説は、能舞台の説明、能楽の歴史など、必
要最小限の項目に絞って、初心者にもとっつき易く
明解。

途中で、生徒さんを三人舞台に上げてのワークショッ
プも例年通りだが、客席の元・生徒まで巻き込まれ
るとは思わなんだ・・・

狂言「附子」。これはもう、ポピュラーな演目で、
教科書にも載っているそうだから、生徒さんたちの
反応も上々。

ただ、茂山千五郎家の公演を見慣れている身には、
山本家の演出は、地味だなぁとの思いを禁じ得ない。
・・もちろん、それも面白いのだが。

能「黒塚」。昨年9月に、本公演で一度見ている。
その時と同じ金春流・・ただし、前回は「雷鳴の出」
という小書がついていた。

黒塚の女の後シテは、般若の面をつける。
冒頭の解説の山井師は、「般若がどうしてあのよう
な姿になったのか、その訳は自分で調べて」と。

“宿題”なので、調べてみる。

般若の面をつける代表的な役柄は、「葵上」の、六
条御息所の生霊だそうだ。

元・皇太子妃という高い身分、教養豊かな女性だが、
光源氏との恋が終わりに近づいたことを悟り、それ
でもなお、思いきれずに、源氏の正妻である葵上を
苦しめる。

その表情には、怒りと恨みが強く表れるのは当然だ
が、そのさらに奥には、見捨てられた者の悲しみが
宿る。

黒塚の女もまた、「見てはだめ」と言い、「見ない」
と約束したのにもかかわらず、それを破られてしまっ
たことを悲しく思ったのか。

いや、それ以上に、人を喰らうことによってしか生
きられない悲しさ、そして、そうまでして生きたい
と思う自分の浅ましさを、嘆いているのだろう。

最後、阿闍梨の祈りによって調伏されてしまい、
「失せにけり」の詞に乗って橋掛を引き上げる鬼女
が、なんとも哀れに見えたのは・・・ちょっと、感
情移入しすぎだったかな。
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2017年06月11日

2017.6.10 国立能楽堂普及公演

2017.6.10 国立能楽堂普及公演

演目
解説・能楽あんない
   「『半蔀』のドラマトゥルギー -夕顔巻からの反照-
    河添房江(東京学芸大・日本文学)
狂言「舟渡聟(ふなわたしむこ)」(和泉流)
    シテ(聟)=野村又三郎、アド(船頭)=松田髙義、
    アド(船頭の妻)=奥津健太郎
  (休   憩)
能「半蔀(はしとみ)」(金剛流)
    シテ(前・里女、後・夕顔の女)=今井清隆、
    ワキ(安居の僧)=大日方寛、
    アイ(所の者)=野口隆行
    囃子方 笛=藤田次郎、小鼓=幸清次郎、
        大鼓=山本哲也
    後見=廣田幸稔、今井克紀、工藤 寛
    地謡=遠藤勝實、坂本立津朗、元吉正巳、宇高通成、
       豊嶋晃嗣、金剛永謹、見越文夫、金剛龍謹

今回の解説は、ちと難しい・・・なにせ、標題の
ドラマトゥルギーの意味が分からない・・・

調べたら、演劇ではドラマの制作手法。社会学用
語にもなっているらしいが、ここでは能という演
劇の話だから、「半蔀」の制作手法、ととってお
こう。

つまりは、源氏物語の「夕顔」の巻を、“本歌取り”
の手法で、能に取り入れた・・というようなこと
だったかな?・・・やっぱり難しい。

「舟渡聟」。聟入りの儀式に、舅の家を訪れる聟
が、矢橋の渡しで舟に乗る・・と、聟の手土産の
酒に目をつけた船頭が、「飲ませて!」

断ると、舟を漕がず、さらには舟をゆすって脅す
ので、仕方なくこれを飲ませる。

這う這うの体で舅の家にたどり着くと、舅は留守
で、姑に歓待される。帰宅した舅・・なんと、こ
れが先ほどの船頭!

面目ない船頭は、自慢の大髭を剃って、人相を変
え、聟に対面・・・一生懸命、顔を隠すが・・・

大蔵流の演出では、船頭と舅は別の人で、船中で
は聟まで一緒になって大酒盛り・・なんだけど、
和泉流では、聟は飲まない。真面目人間。

結局のところ、舅への手土産を、舅が飲んだって
ことだから、めでたし。めでたし・・なのかな?

気になったこと2点。
ひとつは、舅の留守の理由を、妻が「謡の会に行っ
ている」と言うこと。なぜ、仕事ですって言わな
いのかな?・・舟を漕ぐ仕事が、恥ずかしいの?

もうひとつ、髭。亭主には自慢の大髭が、妻には
悩みの種・・って話、他にもあったような。「鬚
櫓」だったかな?・・・狂言の女房は髭嫌いか?

「半蔀」。安居(外出を避けて修行に専念する)
を終えた僧が、その間に仏前に供えた花の供養を
していると、白い花を手にした女が現れる。

僧は、花の名を尋ね、重ねて女の名も尋ねるが、
女は花の名のみを答えて消える。

僧が不思議に思っていると、通りかかった所の者
が、源氏物語の夕顔の段の物語をし、その女は、
きっと夕顔の精でしょう・・と。

勧められるままに、僧が、かつて夕顔の家があっ
たという五条あたりを訪れると・・・

源氏物語の夕顔は、身分の低い庶民の女で、源氏
は、六条御息所のもとに通う途中でこの女を見初
める・・・六条御息所は、元東宮(皇太子)妃だっ
たプライドの高い人だから、自分のところに通う
途中で、他の女に心を移した源氏を許すはずがない。

でも、御息所の怒りは、源氏ではなくて相手の女
に向けられるのですね・・・女心の不可思議。

という訳で、夕顔は物の怪に取り殺されてしまう
ことに。

しかし、「半蔀」に登場する夕顔は、そのことを
恨むのではなくて、ただひたすらに源氏を想い続
け、短かったその逢瀬を思い出して、優雅に舞う。

僧は、夕顔の霊を弔うために五条を訪れるのだが、
どうやらこの夕顔自身は、弔われることなど望ん
ではいないようだ。

きっと、この世の終わりまで、愛しい源氏のこと
を想いつつ、夢幻の世界に遊んでいるに違いない。
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2017年05月14日

2017.5.13 国立能楽堂普及公演

2017.5.13 国立能楽堂普及公演

演目
解説・能楽あんない「世阿弥が『清経』に込めたもの」
       天野文雄(大阪大学名誉教授・能楽研究家)
狂言「呼声(よびこえ)」(大蔵流)
       シデ(太郎冠者)=大藏彌太郎、
       アド(主)=大藏吉次郎、
       アド(次郎冠者)=善竹忠亮
  (休   憩)
能「清経」(観世流)
       シテ(平清経)=浅井文義、
       ツレ(清経の妻)=武田友志、
       ワキ(淡津三郎)=村山 弘
       囃子方 笛=松田弘之、小鼓=森澤勇司、
           大鼓=河村眞之介
       後見=浅見真州、谷本健吾
       地謡=武田崇志、武田文志、小早川泰輝、
          馬野正基、武田祥照、小早川 修、
          長山桂三、浅見慈一

天野先生の解説は、「平家物語」に語られる平清経
の物語と、その意外に単純?とも思われる経緯を越
えて、世阿弥が表現したかった思想は何か・・とい
うようなことだった。ちと難し。

狂言「呼声」。仕事をサボって旅に出た太郎冠者が
帰宅したと聞き、主人はこれを叱りに出かける。
それと悟った太郎冠者は、居留守を使うが・・・。

プログラムの解説によれば、中世の下人(太郎冠者
など)は、休みをとる自由すらなかったのだそうだ
が、この曲の主人は、実のところ、さぼど怒ってい
ない。

太郎冠者に至っては、反省の色?などさらになく、
平然と居留守を使う・・・そして、最後は、次郎冠
者も交えて、三人で踊りまくるという・・・

馬鹿らしくも可笑しいけれど、おそらく、現実には
こんなことはないからこその、庶民の理想を描いて
いるのだろうな。

「清経」。平清経は、清盛の孫で重盛の息子。清盛
が死んで平氏が都落ちした後、まもなく、柳ヶ浦
(現福岡県門司のあたり)で入水自殺をした。

その清経の遺髪を、家人の淡津三郎が、密かに都に
待つ清経の妻に届けるところからお話が始まる。

三郎は、清経の最期を語り、遺髪を渡そうとするが、
清経の妻はこれを拒否・・・討死したのならともか
く、まだ、帝もおられ、戦いが続く状況で、自ら命
を絶つ・・・再会をきっと約したのに、その約束に
背いて・・・

三郎は、仕方なく遺髪を持ち帰る。

その夜、嘆きに沈む妻のもとに、清経の霊が現れる。

妻は夫の自死を責め、夫は遺髪を受け取らない妻を
責め・・・ふたりの思いはすれ違うばかり。

清経は、諄々と自死に至る自分の思いを語り、死後
に落ちた修羅道の話まで・・・

冒頭の天野氏の解説では、清経はただ単に負け戦に
絶望を深めたのではなく、人の世の無常を悟ってし
まったがために、自ら死を選んだ・・とのことだっ
たが・・・・

うーん、どうなのかなぁ。
清経は、享年21歳だという。そんな悟りに達するに
は、いささか若すぎるような・・・

それに、妻にしてみれば、どんな理由にせよ、夫が
自分を残して自ら死を選んだということに変わりは
ない訳で。

最後、修羅道の描写は迫力に満ちていたけれど、入
水前に唱えた念仏のおかげで、「仏果を得た」と言
う清経は、妻にとってはあくまで「身勝手な人!」
なんだろうなぁ・・・という思いを禁じ得ない。
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